| < 獅子屋形 彫刻装飾 > |
| ★制作スタート:平成十八年一月中旬〜完成:同年十月吉日★ デザイン・制作 松 岡 徳 峰
【尾北ホームニュース掲載】 |
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松岡徳峰(徳雄) 著 三十年位前、地元の方から寄付された獅子屋形。祭り(春の
金助桜祭り・秋の祭礼)の度、お囃子に参加し、締太鼓を担当して囃しながら町内安全を祈願し、町内を練り歩いておりまし
た。
それから早三十年・・・。 昨年の秋祭りの日。屋形の塗装が剥げ落ちた所もあり、又、金色の変色 ひどくなってきてしまったので塗装し直そう、との声 が挙がりました。 以前から飾りもないので淋しい屋形だと言うことを誰もが感じていたのです。 しかし、新規で本体・飾り・長持ち等、一式制作するとなると二〜三千万円の制作費も掛かるため、簡単にはできる事ではないと いうことで、三十年近く経ってしまったのです。 私は、「やはり、改装しかないだろう。」と考えていました。 ただ、塗装し直すだけでは、本来飾りがない為、賑やかにはならないのです。 「ここはひとつ、自分で彫刻・飾り・装飾をやってみるか。」 と、大してできる自信もなかったのですが思い立ちました。 メンバーに、「自分で飾りを付けてみますわ。」と言ったのが運の尽き…。 大変な事になってしまったのです。 実は絵画は経験があったのですが、立体は過去に一体制作した程度のど素人。 それからというものインターネットで色々検索し、獅子屋形の画像をPCに保存し、 「どんな彫刻がのっかってるんだ〜?」 「よう見えんなぁ・・・。拡大するとボケてまうか〜。」 とまぁ、こんな所からのスタート・・・と情けない話でした。 と言うのは、町内にも何基か屋形はありましたが、見せていただくとなると 「何するの…?そんな事できるのかね…。」 と感じられると思ったのもありますし、もともと自信も無かったのもあってインターネットに情報をもとめたのでした。 さて、デザインですが、どうしても盛り込みたかったデザインがあったのでした。 現在(06年12月)放映中のNHK大河ドラマ「功名が辻」。 その主人公であります山内一豊の親友であり同僚でもある、後の島根松江城二十四万石、初代城主である堀尾吉晴公の出身地が 我が地元であります。 この吉晴公の子供、あるいは養子とされる説がある「堀尾金助とその母(注1)」をどうして もデザインとして取り込みたかったのです。 要するに、日本中探しても他には無いと言う意匠にしたかったわけです。 さて、頭の中にはぼんやりとデザインができ上がりました。 「材料を何で制作しようか・・・。」 「何言ってるの〜!檜のカンザイの一刀彫りに決まってるでしょうが、」 と言うことで、知人の大工さんを訪問し、制作意図を説明し、とりあえずそれらしい檜の材料をいただいたのでした。 拡大したら、ほとんどぼやけて見えない「昇り龍」から細工してみようかと思い、事前に準備しておいた道具一式を片手に 「さあ、やるか…。」 一日掛かって彫ってはみたものの・・・。 「こりゃいかん、職人彫師のようにはいかんなー。このままだと仮に彫れたとしても、十年以上は掛かりそうだ。」 「何か他に材料は無いものか…。種類によっては同じ作品が数個 もいるし、型でつくるか・・・。」 という訳で、後日美術工芸材料店で一日型を作るための材料を探し、それらしき材料をなんとか探すことができました。 「さて、この材料のメーカーはと・・・あ、ちょうどいいわ〜。瀬戸の会社か…。」 早速アポを取って会社訪問。 「すいません、こんなんに使いたいんですが…」。 社長さん直々でいろいろとご説明いただき、さらに 「造形教室の先生を呼んでみましょう。」 と社長さん。 いらっしゃった造形教室の先生からご親切なご指導を頂き、原型材料は決定。 次に作品の素材探し。 「やっぱ樹脂しかないかな…。」 という言うことで、二液性樹脂に決定。 「いやぁ、自分で型作るしかないな〜・・・。」 型造りは、三十年(?)の昔、少々経験もあってなんとかなりそう…。 少なくとも二十から三十型は制作しなくちゃならない。 専門メーカーと違った製作方法でないと、型作りだけで数ヶ月になりかねない・・・。 というのも、もし型の制作依頼をメーカーに出すと、三十年前で三十万円位/1型していたような記憶があったからなんで す・・・。 さて、今日の休日はいよいよ原型造り。 早朝七時からぼやけた画像を見ながら粘土と格闘。 延々と制作しては壊し、また制作しては、「うまくできん…」の繰り返し・・・。 しかし、何事も慣れれば次からは早く出来上がるようになっていくものですね。 手際も良くなった頃には気が付けば夜中の一時〜二時。 もう寝るか…。 そして、次の朝は夕べの制作作品をチェック。 「あっ!左右の耳の位置が一寸違う!」 「造りなおそ・・・。あれ?金助の鎧の背中はどうなってるんだ?」 鎧の本を探しチェックする。 「あれ〜。えらい短足になっちまったなー。下半身造り直しだ・・・。」 なんとかかんとかで一体完成。 こんな日が数ヶ月続き、ようやく原型が一通り出来上がったのでした。 さあ!次が大変。型造りです。 早く簡易型を制作しないと秋祭りに間に合わなくなってしまう…。 石膏とゴム型で制作するわけですが、型枠はダンボール箱を使用した為、隙間からの漏れとの戦い。 現場一帯と作業着を毎度真っ白にしながらの格闘でした。 何とか型の制作も完了。 いよいよ樹脂の流し込み・・・。 これがまた大変。石膏型が大きく、そして重い…。 腰痛と漏れとの戦いであったのです。 もともと自由な意匠で原型をデザインし制作しているので、離型を考えたデザインをしていないわけです。 そうなると困難な離型作業が重なって型の消耗が激しくなり、物によっては最低必要な数の制作すら難しく、細工を加えながら の仕上げとなったのでした。 さて、祭りまで三週間。 何とか成形は出来上がり、いよいよバリ取り・成形・仕上げ・着色の段階に…。 さあ、この際だから「純金箔」・「純金粉」で・・・と思い、材料店に問い合わせたところ 「止められた方が良いんじゃないでしょうか…?」の意外な返事。 純金粉は耳掻き一杯三千円位しますので、作品の表面がでこぼ このものに純金を使うと一体塗るだけでもいくら掛かるか検討がつかない・・・という訳なんです。 きっととんでもない金額になるんじゃないですかね・・・。 ということで、お仏壇屋さんでお聞きしたところ、 「これだけ純金箔・純金粉で仕上げたら250万円以上は掛かるんじゃないですか?」 との回答を頂いて、きっぱりあきらめもつきました。 色々相談の結果、外国の商品で代用金色塗料という物があることを聞きまして、 「変色の耐久性もいいんで、これにされたらよろしいと思いますよ。」 との店主の推薦もあり、それに決定し塗装仕上げをする事にしました。 将来、予算ができた時点で純金を塗ればいいかな…。 さて、祭りまでの日にちが刻々と迫って来ました。 平日仕事の前後・休日ともに、早朝から夜中にかけ取り付け金具の制作、そして塗装し直した屋形に彫刻を設置しはじめます。 後日、取り外しできるよう、さびない釘の使用、ビス止めとして、レイアウト宜しく取り付けしたのでした。 「うーん…、龍の位置が少し傾いてる。おお、麒麟の向く方向をちょいと変えなくては…。」 と、あるだけの彫刻の品で飾り付けを考えます。 数日後に迫った祭りには、今から追加で新しい彫刻を造っていたら全く間に合いません。 そしてやっとの思いで祭りの前日に飾り付けがおわり、助けを 借りて台車・長持ちに屋形を据え付ける事ができました。 「あーぁ、長持ちの金具の制作ができなかったなー。ちょいと寂しいよな・・・。よし!手描きで縁起ものでも描こう!」 「麒麟に龍。鳳凰に獅子。うん、これで決まり!」 適当に探した資料を見て自分流(?)で、代用金粉を使い一、二時間で一気描き。 やっとの思いでついに、祭り前日にして完成したのでした。 他人の手を若干借りたものの、ほぼ九八パーセント一人制作。 というか、実は応援してもらう訳にはいかない。そして、仕事中の時間に制作してはならない理由があったのでした。 まったく制作に自信も経験も確信もない。当然予算すらない。ほとんんど手探り状態でスタートを切った為でした。 その上、必要な材料は購入しなくてはならない。 途中でギブアップする、あるいはどうしても物にならなかった事になったら材料費もドブに棄てる事になるというプレッシャーもありました。 近所の人々が真っ白けになって格闘している自分の様をみて、 「何やっとりゃーす」との声に、 「やぁ、こんなこことをやっとるんだわ〜。うんまい事でききるかどうかわからんけどやっとるんだわね…。」 期待(?)に応えなければいかんと勝手に思いこみ、寝る暇を惜しんで制作に没頭していました。 そんなこんなで何とか仕上がり、祭り当日。 晴天に恵まれ笛・太鼓のお囃子に包まれ、出来上がった「他所には無い」オリジナル獅子屋形が、代用金ではありますが、秋の 青空と太陽の光に輝く獅子屋形が町内の詰め所、そして、神社と町内安全を祈願し、町内を胸を張って練り歩いているように見えたのでした。 人々にも大変完成を喜んで頂くことができ、九ヶ月間の休日返上・早朝〜夜半迄の長丁場の制作疲れも忘れられる祭り当日を過ご させて頂けたのでした。 そして、匿名を希望される御奇特な方がスポンサーになっていただけましたので費用のほうも心配なくなり、ただ感謝するばかり です。 地元の人々に愛され、自分が居なくなった後も、この獅子屋形が残ってくれればと思うと、制作して良かったのかなと今では思う のであります。 (注1) ●裁断橋物語 金助とその母 天正18年(1590)2月、堀尾金助は、父が病気のため、叔父に伴われ小田原征伐に18歳の若さで加わった。 母は金助の無事の祈願をかねて、当時、熱田神宮付近にあった東海道の裁断橋まで見送ったが、同年6月、金助は戦死。 天涯孤独となった母は、子の供養にと私財を投げてうって、2度、裁断橋を改修した。 ●金助と母の像 大口町に語り継がれる裁断橋物語。 ●裁断橋 擬宝珠に刻まれた金助の母の銘文は、日本女性三名文に一つにあげられます。 ●堀尾吉晴邸趾 |
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獅子屋形の画像色々 |
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